Opinion

関東大震災の罹災記録~実体験者の記録~

執筆:村井俊治、JESEA取締役会長、東京大学名誉教授

関東大震災の罹災記録~実体験者の記録~

2017年2月4日に神奈川県小田原市にある相日防災株式会社の創立50周年記念式典に招待された村井俊治会長は、隣の席に座られた小田原市にある古刹勝福寺の峯孝雅住職と親しく話をしました。その際、御住職の祖父が昔小田原町立小田原高等女学校の校長をされており、大正12年(1923)の関東大震災の小田原高等女学校の罹災記録を残されているとのことでした。早速村井会長がその罹災記録を所望したところ、峯住職は快く手書きの罹災記録を送ってくださいました。昔の文体でもあり、手書きで読みにくいことから現代文へ変換しました。大変貴重な資料ですので、多少の編集をして関東大震災の罹災記録を以下にまとめました。関東大震災では小田原市も大きく揺れ甚大な被害を受けました。

小田原市町立高等女学校の「地震・火災罹災記録」は大正12年(1923)9月6日午後2時半調整と書かれており、大震災の5日後にまとめられたものです。9月1日、午前11時58分、関東大震災の大地震が発生しました。女学校では、書記・向井政敬が、日直を兼ねて登校していました。小使い・猪俣長吉も当番で在校していました。生徒・尾崎エイ、曽我ヨリはミシン実習のため登校中でした。

猪俣長吉は、向井書記に昼食用の茶を運んだところ、同書記はソバを注文したので、茶は要らないとのことだったが、食事後に飲んだらいいからと、茶を置いて小使い室に帰って昼食を取ろうとした瞬間、地震が襲来しました。室外に飛び出しました。向井書記は校舎の南側に避難しました。間もなく、隣地の三樹一平氏宅から女中が悲鳴を上げて「小使いさん、助けてください」と叫んだので、走ってそこに行き、1時間以上もかかって20歳くらいの女子・堀江ツエ嬢を救い出しました。その後走って帰宅しました。生徒・尾崎エイは2階東裁縫室の北窓側でミシン実習中でしたが、2階から直ちに飛び出して、逃げて帰宅することができました。

峯堅雅校長は8月29日、北海道庁立某高等女学校からの転学の件で電話があり、8月31日あるいは9月1日のいずれかにあらかじめ船越教諭にその面接を委嘱していました。同教諭は向井書記に引き継いで8月31日の夜、急ぎ郷里の岩手県に帰省する旨の通告を受けたので、9月1日午前10時までに登校のつもりでしたが、気が進まず遅くまで在宅していたところでこの震災に遭い、直ちに登校しました。途中、伊藤教諭と早野教諭を訪れたところ、早野氏は生家・高座郡に趣かれて不在、伊藤氏は8月31日午後5時ころ、旅行届を提出して帰国してこれまた不在でした。

このため、独り走って来校すると、校舎は全部倒壊し、2階は少し原形を残していたものの、階下は階上に押しつぶされ、内部に入ることができませんでした。玄関の張り出し屋根は南側の庭にそのまま西南に傾斜して、地上に突っ込むような態勢で倒れていました。校舎の南側は階下にさえ入る手段は全くなかったです。

校長が校舎を一周して調査したところ、雨天体操場は南南東に傾斜しているもののほとんど原形をとどめており、小使室・便所などの建物ならびに本校舎への渡り廊下は、これまた、ほとんど原形のままに残存し、家事実習室の損害は、雨天体操場から屋根が離れてしまったものの、原形は何とか見える程度でありました。寄宿舎は階上・階下とも全部倒壊してしまっており、わずかに物置と本校舎間の廊下だけが残っていました。

御真影奉安所(天皇陛下のお写真を奉安する場所)は校長が校門に到達すると原形のまま、東北東に仰向けに転倒していました。倒れてはいたが建物そのものは無事であったことに安堵し、敬礼してまず校舎の倒壊状況と、職員・生徒・小使いなどの安否を踏査することに着手しました。

向井書記が職に殉じて事務室内で圧死しているに違いないと思いました。校長室用ならびに来賓用の白布を覆った椅子一脚が校庭にあったはずだと思ったところ、避難民がこれに腰かけていたのを発見して、もしかしたら同書記は避難することができたのかもしれないと、一縷の望みを持ちました。ほかに、難民数十人が校庭の西南に集まっているのを除いて、校舎・校庭を探すも、本校の職員・生徒・小使など、寂としてその片影すら見当たりませんでした。

のちに小使室の炉火に注意すると、壁土は落ちて火の気はなかったです。傍らの濁った井戸水をバケツに汲んで十分に注ぎ、次に御真影奉安所に走って垣根の扉を押し開いて敬礼再拝してこれを仰ぎました。礎石は崩れて倒れているが、破損の個所は見えませんでした。御真影が入っている扉の錠を開けようとしました。鍵はなかったですが苦心のすえ何とか上扉を開けることができました。御真影を門内の馬車廻りの西に奉遷しました。【注:校長の最大の義務はご真影を守ることであることが分かります】

続いて向井書記の死を憂い、走って事務室の南に行き、北に回って声を限りに叫び、部屋に入ろうとするのだがどうしてもその手段がなく、茫然とするだけでありました。さらに使丁室に行くと、使丁は帰ってきておらず、上着なども壁にかかったままで、時計は南に傾いているものの時針は動いているので、これを外し携えて奉遷所に運びました。時に午後2時10分だったと記憶しています。

この時小田原町収入役向井氏が来校されました。向井書記は今朝登校してまだ帰宅していないので遭難を半信半疑で、万一を頼って来られたのでした。その生存を望むより事務室で殉職されたに違いないと語り、直ちに発掘の手段を講じました。人夫を求める努力に時を費やすこと長時間に及び、ようやく二人の人夫を得て斧と鋸を使って校舎北側、応接室に当たるところを破りましたが、中に入ることができません。さらに休養室に当たるところを破るように努め、しばらくして、生徒用寝具3枚を引き出すことができるまでにはなりましたが、梁の巨材が横たわっていてその手段を放棄するのは止むを得ませんでした。

校長は小田原町長・今井廣之助氏が濠端の仮役場事務所におられると聞き、そこに趣いて町長の避難の状況を知りました。しばらくして市中に火災や竜巻が起こり、轟々(ごうごう)たる轟(とどろき)と黒煙は天に沖して全市を覆い、多くの市民が濠端に逃げてきました。町長は直ちに主事・西尾盡吉氏と御用邸門前に移られました。校長は御真影を校門内からさらにお濠端の櫻の樹あたりに奉遷しました。

校長は火災の延焼の心配から、もっぱら風向に注意しました。重要書類等を持ち出す方法を考えましたが、到底倒壊した階下に入る方法がないため焦るだけで、いかんともしがたい状態でした。竜巻状の火災の猛火は四方に広がり、郡役所・郵便局・倉橋箱根細工工務所などの建物から旧二の丸外の濱田新築病院等にまでおよび、さらに本校舎東板塀外側の人家に移り、ついには理科教室に延焼しました。

時にポンプ1台がお濠端の第二小学校前の道路の突き当りからようやく本校前にやってきて位置を占め、ホースを延ばして第二小学校前の道に持って行き、この道路から商家を隔てて本校舎に水をかけようとしました。校長は百万筒先(消防用ノズルの筒先)が本校の門内に入って、本校舎を消火しようとしていました。消防は『素人なので本職のようには動かない』ながらも放水を始めました。(本職は)ポンプのところに引き返し、水を止めて筒先を校内に持ってくるよう交渉しました。筒先係に校舎を燃やさせまいと哀願しました。ようやく3間ほど引き返させることができたとき、他の者が来て言うには「町内から頼まれたので、ここを動いてはならない。如何に校長が努めても一切動いてはいけない」と言われました。万事休すで、本職は消火を断念せざるを得ないとわかりました。

理科教室が燃え出したのは午後5時でした。校門に来ると、炎はたちまちにして階下の音楽教室へと延焼してきました。時に5時10分頃です。5時15分には階上一面が火炎に包まれました。階上の物を何一つ取り出す方策がありませんでした。その後、消防は一時校門にホースを入れてくれたが時すでに遅く、放水を止めざるを得ませんでした。

校長はお濠端に御真影を守護しつつ走って御用邸門前にある仮町役場事務所に趣くと、西尾主事の傍らにいた町長・今井廣之助氏が低頭して謝り「まことに申し訳ない。校舎全部を焼いてしまいました」と、本職に挨拶して述べられました。続いて志摩教諭の夫君・志摩英氏ならびに関俊一両氏は、本職を助けて御真影を三度奉遷して、御用邸の御門前にある町役場(仮)事務所に移しました。校長は御真影をここで守護しながら、雨天体操所が焼け落ちるのを町長および西尾主事等と暗い芝生の地から眺めていました。

のちに校長は御真影を仮町役場事務所に奉安し、主事に断って本校職員の出動を命ずるために走って学校に戻りました。その後寺町福田屋菓子舗前を迂回して森田教諭・田邊教諭・吉田教諭の動静を調査しました。夜更け遅くになって田邊・森田両教諭が安全であったことがわかりましたが、吉田教諭の自宅は焼失し、ついにその避難の状況は分かりませんでした。

北畠先生の安否を知りたいと思って旧竹ノ花方面に行きましたが、到底探査の見込みはなかったです。再び迂回して御用邸御門前に戻ろうとするときに、町役場の提灯を持った役所の職員と出あったので、「本職はここから飯泉に帰り、直ちに引き返して、仮役場に行くかもしれない」と町長に報告をしてくれるように依頼しました。

9月2日、仮役場事務所は第二小学校内に移されました。本校の御真影は、本校の講師・岩下清之助氏が奉持(ほうじ)(捧げ持つこと)して同校内に奉遷し、第二小学校の御真影と同じところに奉安しました。校長は、朝出勤して町長に会って御真影守護の任に当たりつつ、小田原町罹災民救護米の切符を渡すことを、第一・第二小学校などとともに町職員の手伝いを行いました。午後2時少し前頃、急に町から本職に委嘱があって、郡内小田原町民の糧食の欠乏を見越して、町長代理・町会議員の岩下清之助氏が米買い入れのため出張を決意したので、小職に同行してほしいとのことでありました。すぐにこれに応じ、山王原海岸まで瀬元留吉・斎藤亀太郎両氏に見送られ、松千丸第三号便に乗り、三崎港に仮泊しました。はじめ端舟(小舟)に乗ろうとする際、青年の某が走ってきて本職を呼び止め、書記・向井政敬氏が震災で死去されたことを告げました。振り返って問いただすと、それはソバ屋橋本の出前で、向井氏が注文したソバを学校に届け、その際にわかったものだといいます。(小職は)午後2時半に出航し、同夜は三崎港に仮泊しました。

吉田教諭はこの日午前中、学校の焼け跡にきて調査しましたが、誰もいなくて門前の張札によって校長を用邸に訪ねたのだが、姿が見えなかったです。さらに小田原町役場に行って校長の所在を尋ねたところ、緊急用務を帯びて出張したことを聞いたと言います。御真影の奉遷のことも聞き守護すべきと思いましたが、罹災と持病と家族避難のために、仕方なく中島方面に帰りました。北畠教授嘱託は午後学校に来て、門内の避難者に御真影と仮事務所の在所を聞いたところ、御用邸内にあるとのことなので行ってみましたが、知らないとのことでした。探してみましたが判明しなかったので緑町裏にある鉄道線路側に避難・露宿しました。

9月3日、校長は早朝4時半に三崎港を出航、房州の冨浦に寄港、横須賀軍港に上陸、鎮守府司令長官に小田原地震災の被害を陳情のうえ、午後8時に芝浦に上陸、同10時内務大臣官邸において、井上内務次官に陳情したあと同邸内に宿泊しました。志摩リウ教諭が今朝学校を見舞に来ました。夏目教諭も来校し、役場に行って町長と助役に会い、御真影奉遷所を聞き、校長の出京を聞いたと言います。

9月4日、校長は午後2時、内務省において陸軍大臣から内務大臣あての通牒により、5日未明、軍艦膠州は清水港に到着、米を満載して小田原海軍に運ぶ旨を内示され、使命は大成功でした。岩下清之助氏は帰路に就きましたが芝浦よりの駆逐艦がなく、内埋立地(東京市芝区芝浦町1丁目)東京市河港課出張所内の避難民救護所に宿泊しました。

9月5日、校長は芝浦から横須賀に帰航し、第三松千丸に乗り換えて夜の9時過ぎ山王原海岸に上陸、町役場に寄って一木喜徳郎氏別邸を訪ね、直ちに曽我重蔵氏の仮宅に於いて岩下清之助氏とともに、町長・今井廣之助氏に出発以来の顛末を報告しました。岩下清之助宅に行き、令夫人の訃報を知りました。故向井政敬氏の子息とともに船越教諭宅を訪れたが会えず、夜半の3時に帰宅しました。船越教諭は郷里に帰省し、僅かに2時間いただけで出発し、八王子に回って大山街道を徒歩で飯泉の校長自宅を訪ねてから帰宅しました。

吉田教諭は飯泉校長の自宅へ家族を伴って避難しました。北畠教授嘱託は森田教諭と前日面会・打ち合わせをしていたため、連れ立って登校日のこともあって、行く約束をしましたが、吉田教諭は都合上午前中に登校するとのことなので、午後独り学校に来たが誰もおらず、町役場に行って戸籍係の職員に御真影のことを聞くと、仮事務所に向かう職員が第二小学校物置に行って調べてくれて、はじめて第一小学校長宅に奉遷されていることを知ることができましたので安心して帰りました。志摩教諭が学校を見舞いに訪れました。

9月6日、校長・船越・吉田・夏目・森田・志摩・田辺・北畠の7教諭が出勤し、諸事について打ち合わせました。生徒の死傷者を調査して、帳簿1冊を作成しました。御真影の奉遷所については警護係の順番を決め、一同で第一小学校長宅の奉遷所に行きました。校長は去る二日、山崎郡視学に口頭で諸事について報告しましたが、さらに吉野下郡長と面接し、口頭で種々のことを報告しました。

9月7日、校長・船越・伊藤・吉田・夏目・森田・志摩・北畠ほか小使い二人が出勤。伊藤教諭は郷里より前夜帰られて御殿場駅から徒歩で今朝、飯泉にある学校長自宅を訪問されました。北畠教授嘱託は、校長自宅に避難しました。地震火災の罹災記事録を調製し、学校長が執筆し始めました。小使い二人を伴って、焼け跡の整理に着手しました。

9月8日、出勤者は、校長・船越・奥津・志摩・ネビル。来る12日に、職員全員が登校することを約束しました。故向井書記の屍体が発見されました。去る2日、学校長は故向井政敬氏の遺骨だろうという3,4片の1、2寸の骨片を事務所北東隅に発見しました。同氏子息の手によって同所に同氏の霊の標(しるし)を立てました。そして本日、校長は校舎本玄関前の屋根の下に屍体があるのを発見しました。直ちに向井収入役に報告し、立ち合いのうえ向井書記本人と認定、棺が来たのを待ってさらに調べたところ、上半身・腕・頭部・顔面等が現れ、草履さえ半分は残っていて、故同書記は屋根が地面に突き入った下に横に倒れており、まさしく震災当時死亡したことを一同認めました。棺を埋めたあと校長の読経があり、親戚・学校長・船越・奥津・志摩の諸教諭は火葬場まで見送りました。

 

・御真影奉安所
戦前の日本では学校には天皇と皇后の写真(御真影)と教育勅語を納める建物(奉安所や奉安殿)が建設されました。御真影を下賜して学校に設置するようになったのは、教育勅語が制定された1910年からです。奉安殿や奉安所が各学校に建設されるようになったのはこれ以降のことです。1935年ころには小学校のほとんどに設置されるようになりました。これらを守護するのは、主として学校長の責任でありました。奉安所が地震や空襲・火災などで危険にさらされる可能性があるため、校舎内の奉安所は金庫型や独立した奉安殿などが設けられるようになりました。校舎との一体型は旧制中学に、独立型は小学校に多く見られました。

※文中には不適切な表現もありますが、オリジナルを尊重して原文に近い形で掲載いたしました。

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