三河地震が発生したのは、昭和20年1月13日。わずか7か月後、日本は敗戦を迎えた。
戦時下で発生したこの直下型地震は、前回までに触れたように、報道統制や軍事優先の社会構造の中で、記録にも記憶にもきちんと刻まれることなく、長く人々の意識の底に埋もれてきた。だが、忘れられていった理由はそれだけではない。
戦後復興の過程において、焦点は焼け野原となった都市部の再建や生活再建に向けられた。戦争の記憶を整理する間もなく、人々は「前を向いて生きる」ことに必死だった。三河地震の被災者たちも例外ではなく、自らの体験を語ることより、まずは日々をどう生き抜くかに注力した。
加えて、地震によって失われた命の多くが、軍需工場で働いていた若者や動員された学生だったという点も、この地震が「語りづらい災害」になってしまった一因である。語ろうとすれば、そこには戦争という負の歴史と向き合わざるを得ない。遺族もまた、沈黙を選ばざるを得なかった。
だが、そんな沈黙の中にも、確かに残されたものがある。いまも安城市内には三河地震の慰霊碑がひっそりと建っている。文字は風雨にさらされ薄くなりつつあるが、そこに刻まれた一人ひとりの名前が、あの日確かに存在していた命を思い起こさせてくれる。
また、岡崎市内の古い町並みには、地震の後に建て直された土蔵や住宅が今も点在する。地元の高齢者の中には、「あの時の揺れが人生観を変えた」と語る人もいる。地震がもたらしたのは、単なる物理的な被害ではなく、人々の心の奥に深く刻まれた恐怖と、それに打ち克つ力だったのかもしれない。
「三河地震」という言葉を初めて耳にする人も多いだろう。昭和の災害史を振り返ったとき、関東大震災や阪神淡路大震災、東日本大震災のような巨大災害と比べ、三河地震はほとんど語られることがない。しかし、死者2000人以上を出したこの災害は、数字だけを見ても明らかに「重大な災害」であり、記憶に留めるべき歴史の一部である。
しかも、それが発生したのは“前震”とも呼べる東南海地震のすぐあと。大きな地震のあとにも別の地震が続く──その連鎖の現実を、私たちはこの歴史から知ることができる。
2020年代に入り、南海トラフ巨大地震への懸念が再び高まっている。専門的な知識を必要としなくとも、過去に何が起きたのかを知ることは、未来の備えとして極めて大切だ。災害は繰り返される。それを忘れた時こそ、私たちは最も無防備になる。
戦後80年を迎えようとするいま、私たちが三河地震を思い起こすことには、大きな意味がある。地震そのものよりも、それを生きた人々の声に耳を傾けることで、学べることは多い。たとえば、「助け合い」「共に耐える」「語らずとも伝わる思い」といった言葉に込められた、日本人ならではの心の在り方。
そして、何よりも大切なのは、災害に遭ったときに「どう向き合うか」である。黙って耐えるのではなく、語り、記録し、次の世代へと残していくこと。三河地震が埋もれてしまった過去を繰り返さぬよう、いま私たちができるのは、語ることから始めることだ。
被災者の中には、戦後も語らずに亡くなった人もいる。だが、その記憶を次代へつなぐのは、私たちの役目だ。あの戦時下で起きた、あまりに静かな、しかし壮絶な地震を、もう一度「見つめ直す」こと。それが、この三部作を通して伝えたかった思いである。