昭和20年1月13日午前3時38分。真夜中の静寂を破って、突如として激しい揺れが愛知県西部を襲った。これが「三河地震」である。先月12月に発生した昭和東南海地震からわずか1か月余り。人々が震災の余韻に警戒しながらも、少しずつ日常を取り戻そうとしていた矢先のことだった。
この地震により、旧三河国にあたる岡崎市、安城市、碧南市、西尾市などが甚大な被害を受けた。特に岡崎市の東部と安城市北部では家屋の倒壊が相次ぎ、寒空の下で多くの人々が命を落とした。死者は2306人、負傷者は3000人以上、全壊家屋は約7500戸にのぼるとされている。だが、この地震が全国的に知られることはなかった。
なぜなら当時は戦争末期、情報統制が極めて厳しく敷かれていたからである。空襲や敗戦に関する情報と同様、地震の被害も“軍機”とみなされ、報道は抑えられた。新聞にはわずかに「東海地方で地震、若干の被害」といった簡単な報が載った程度で、詳しい被災状況や犠牲者の実数は伏せられたまま終戦を迎えた。
被害が集中した地域のひとつ、安城市には当時、中島飛行機の大規模な軍需工場があった。戦況悪化の中でも生産が続けられていたその工場は地震で大きく損壊し、多くの作業員が下敷きになった。学生動員や徴用工として働いていた若者も多く、尊い命が無残に奪われた。だがこの事実もまた、公式にはほとんど語られていない。
現地の証言では、地震の瞬間に天井が崩れ、真っ暗闇のなか叫び声と粉塵で何も見えなかったという。暖を取るために火鉢を使っていた家屋が多く、倒壊とともに火災が発生し、焼死者も出た。だが、当時の行政や軍関係者は、空襲への対応を最優先とする体制を維持しており、地震への救援は後手に回った。
安城駅周辺では線路が歪み、列車の運行が一時停止。岡崎では市街地の被害に加え、水道・電気といったインフラが寸断され、避難所も十分には整備されていなかった。しかもこの日は冬の寒波に見舞われ、毛布も食糧も不足したまま数日間を過ごした人も少なくなかったという。
にもかかわらず、被災者たちは声を上げることができなかった。なぜなら「国に迷惑をかけてはならない」「我慢こそが忠義である」という空気が社会を覆っていたからだ。地元の婦人会や青年団は炊き出しを行い、配給を待つ長い列ができた。遺体の仮埋葬も地域住民の手で行われ、やがて春を迎えるころにはその多くが記憶の底に沈んでいった。
戦後、GHQの統治下においてようやく一部の被災実態が明らかになるものの、東京大空襲や広島・長崎の原爆投下という巨大な災厄の陰に隠れ、三河地震は「記録されなかった地震」として人々の記憶から薄れていった。
しかし、地元に残された慰霊碑や、わずかに語り継がれる体験談が、当時の地震の凄まじさを静かに物語っている。ある年配の女性は「戦争も怖かったけど、あの時の地震の夜の闇は、もっと怖かった」と語った。空襲のサイレンも鳴らず、警報も出ず、ただ大地が揺れ、家が崩れ、人が消えていった。そんな経験をした人々にとって、あの夜は「音のない戦場」だったのだろう。
このようにして、三河地震は歴史の表舞台に出ることなく、封印された地震として扱われてきた。だが、忘れられたからといって、その痛みがなかったことになるわけではない。
次回【第3部】では、なぜ三河地震がこれほどまでに語られずにきたのか、その背景と教訓、そして現在に生きる私たちが何を学ぶべきかを、記憶と記録のあいだから考えていきたい。