執筆:村井俊治、JESEA取締役会長、東京大学名誉教授
【東日本大震災のガレキ】~ガレキの分別~問題はアスベスト
東日本大震災では大津波が起きたために大量のガレキがでました。当初は総量2400万トンと言われていました。その後2000万トンになり、最終的には1600万トンと発表されました。環境省の推定では2272万6千トン、京都大学の推定では2673万トンと見積もられていました。被害の大きかった石巻市だけで685万トンのガレキがあったと言います。宮城県のガレキは約1000万トンありますが、年間廃棄物の19年分あったといいます。2年経過した時点で全体の63%の処分が出来たと報告があります。岩手県では11年分のガレキがありました。2015年時点では全体の約9割のガレキ処分が完了したと報告されました。
ガレキはまず一次集積場に集められ、分別されてから二次集積場に集められました。分別作業に多大の労力を要しました。分別では位牌、アルバム、ランドセルなど個人の重要な所有物は可能な限り所有者に戻す努力がなされました。汚れた写真の修復はボランティアによって修復されたニュースも流されました。木材のガレキはチップにされてから焼却されました。東日本大震災では、津波によりあらゆるゴミが流されたためにそれらは産業廃棄物扱いになりました。木材、コンクリート、車、事務用品、家電製品、漁船、漁網、土砂、ヘドロなどあらゆるものが産業廃棄物扱いとされたためその処理はとても大変でした。一番の問題はアスベストでした。余りにも大量のガレキを処分する必要があったためにアスベスト対策があまりなされなかったからです。作業員はマスクもしないで働いたためにアスベスト被害が問題となり、アスベストは「静かな時限爆弾」と報じられました。
【漂着ガレキ】~津波ガレキは米国西岸まで漂着~
津波の影響で、海を漂流するガレキは国際的に問題でした。総量500万トンのうち350万トンは海底に沈み、残りの150万トンが漂流しました。アメリカおよびカナダの西部の海岸およびアラスカに漂着しました。漂流ガレキは木材、漁具、灯油用ポリタンク、車など様々です。一番話題になったのは青森県三沢の漁港にあった巨大な浮き桟橋がオレゴン州の海岸に漂着したことです。撤去するのに600万円かかるそうです。漂流しているガレキのうち22万トンは2013年10月頃までに北米各地に漂着すると見られていました。
一番危惧されているのはプラスチックゴミです。魚がプラスチックゴミなどガレキの一部を摂取すると食物連鎖で化学物質が濃縮する危険もあると言われています。日本からは米国に5億円、カナダに1億円の処理代を寄付したそうです。でもアメリカ人は、「津波は天災で神の仕業なのだから日本がガレキ処理代を支払う必要はない」と考えているそうです。そうは言っても日本人の多くはアメリカやカナダにすまないと思っていることでしょう。
土地の境界に埋められている測量杭は知っていることと思います。最近の測量杭は樹脂製で中にチップが埋め込まれていて、杭の番号、設置された場所などが読み取れるようになっています。東日本大震災の津波でガレキと一緒にアメリカの西岸にあるワシントン州のオーガスという港町に測量杭が流れ着き拾われました。現地のテレビ放送で話題になったそうです。日本から流れ着いた測量杭であり、製造は岡山県にあるリプロ社であることもわかり、測量杭がどこにあったかの調査が行われました。リプロ社の岡田社長がチップの情報を読み現地調査をしたところ、測量杭はなんと和歌山県の日高町の山に埋められていたことが判明しました。台風の豪雨で土砂崩れが起き、海に流され、さらに東北の太平洋岸に流れたのが津波でガレキと一緒にアメリカに流れたのでした。この物語は「8000キロを渡った杭」という絵本になっています。同じようにボールが漂着して元の所有者に返還されたニュースもありました。
2013年8月3日に日本海の福井県坂井市沖で航行している漁船から漂流している小型船があると118番通報がありました。海上保安庁の巡視船が約5時間後に小型船を発見して曳航しました。この船は調べで宮城県気仙沼市の漁業村上千代志さん所有の漁船「千代丸」(全長5.6m)と判明しました。千代丸は親潮に乗って気仙沼から南下して沖縄県の尖閣諸島北方沖まで漂流しているところを2013年6月下旬に第六管区海上保安本部が発見しましたが見失ったといいます。その後日本海を北上する対馬海流に乗って福井県まで流されたわけです。気仙沼~尖閣諸島~福井県と総距離4000km~5000kmを2年半かけて漂流したことになります。所有者の村上さんは、使える状態なら引き取って使いたいと言ったそうです。
【被災車両の処分】~廃棄物処理法~41万台が被災
東日本大震災では41万台の被災車両があったと言います。被災自動車の処分は原則として所有者等の意思確認が必要です。被災車両は、所有者等による保管が可能な場合を除きひとまず自治体が集めて保管します。移動・保管の際には所有者等の意思確認は不要です。民有地に流されてきた被災車両は、当該民有地の所有者の理解が得られれば、支障の無い範囲で一定期間その場での保管をお願いします。
廃油、廃液が漏出している等、生活環境保全上の支障が生ずるおそれのある自動車については、廃油・廃液の抜き取りをします。保管に当たっては廃棄物処理法に基づく保管基準に準拠します。段積みして保管する場合や、海水に冠水した状態の自動車を取り扱う場合は、バッテリーのショート、発火を避ける処置を行います。
後日所有者等から問い合わせがあった場合に備えて、移動を行う前に車両の状態を写真に残すなどしてリスト化しておく必要があります。車両ナンバーから所有者を割り出すことが求められます。残っている車検証や車台番号から運輸支局等に問い合わせることで、所有者の割り出しが可能になります。
自治体は保管された自動車の所有者等と連絡を取るよう努め、処分を委ねるか自ら引き取るかについて所有者等の意思を確認する必要があります。所有者等と連絡が取れない場合は、自治体が使用済自動車となった被災自動車を引取業者に引き渡すことができます。被災による損壊が著しく車両ナンバーや車台番号が判明しないこと等により、当該被災車両の所有者等が確知されない場合、自治体が使用済自動車となった被災自動車を引取業者に引き渡すことも許されます。
損傷の程度が小さく、外形上から判断して自走可能と考えられる自動車についても、必要に応じて保管場所への運搬することは可能です。この場合も、車両ナンバーから所有者を割り出し、所有者等が引き渡しを求める場合は引き渡します。
【首都直下型地震を想定した車の強制撤去訓練】~改正災害対策基本法
首都直下地震で一番危惧されるのが、運転者が避難して車両が放置され、あるいは故障したままの車が放置されて道を防ぐことです。東京23区内で約7千台以上の車が放置されると試算されています。大破した車は財産的価値がない「ガレキ」として処理できますが、東日本大震災までは施錠された無傷の放置車は勝手に重機などで移動できない法律でした。2014年11月の改正災害対策基本法で災害時の放置車両を強制撤去できる権限を国や自治体に与え、止むを得ない場合には車を破損することを認めました。首都高速道路での撤去訓練によれば、約3トンの車体を持ち上げられる車輪付きジャッキで放置車両を撤去することが可能でした。別の車で大型車を牽引することで通行可能な1車線を確保できました。放置車両のほか、沿道のビルのガラスや壁などのがれきで道路がふさがれることも想定されます。橋に段差が生じることもあります。土のうの軽量化やゴムマットの利用で迅速な対応を進める対策も検討されています。
【過去の地震ガレキの処分】~山下公園~神戸ポートアイランド
1923年に起きた関東大震災のときガレキは横浜の埠頭に埋め立てられ、山下公園になりました。横浜市がまとめた「横浜市震災誌」によりますと、全焼した市内の家屋は5万5千戸、全壊1万8千戸、死者・行方不明者2万3千人となっています。このとき倒壊した建物を山下町に面した海岸に埋めて処分し、山下公園となって生まれ変わりました。関東大震災の復興のシンボルになりました。震災前から公園を整備しようという考えは都市計画のなかにありました。しかし、なかなか実施されずに延びのびになっている間に関東大震災が起きたので、ガレキを埋め立てる必要に迫られた横浜市は、公園の造成を決定したと言います。ガレキを埋め立てて、公園の造成を進めるうちに震災復興のシンボルにしようと考え、横浜市は震災7年後の1930年に山下公園を開園しました。開園5年後の1935(昭和10)年3月26日から5月24日まで復興を記念して復興記念横浜大博覧会を開きました。博覧会は海外からも出品され、連日多くの来場者でにぎわったといいます。
1995年の阪神淡路大震災(神戸地震)では通常の7年分の2000万トンのガレキがありましたが、津波がなかったので主にコンクリートと家屋のガレキでした。すべて神戸港の埋め立てで処分されました。兵庫県では公共の土地や未竣工または未利用の海面埋立地が多くあったため、最大時で55箇所129万㎡に及ぶ仮置場を確保することができたと言います。大阪府と京都府の2府、および兵庫県、滋賀県、和歌山県、奈良県の4県による「大阪湾フェニックス計画」(神戸ポートアイランドなど)の埋め立て計画の埋め立てにガレキが使われました。埋め立て処分場は、神戸沖、大阪沖、尼崎沖、泉大津沖の4カ所でした。2年間の早さでガレキの埋め立て処理が完了されたと言います。
【ガレキを森の堤防に】~生態学的な防潮堤~グリーンインフラ
「ガレキを活かす森の長城プロジェクト」が2012年7月に発足しました。被災地の沿岸部にガレキを埋め立てて堤防を築き、植樹して緑の長城を築く構想です。アメリカのニューヨーク生まれで現在東京大学の教授をしているロバート・キャンベルさんはこのプロジェクトに参加して植樹を積極的に進めていることが新聞に報道されました。海岸にはクロマツが防砂の目的で植えられてきましたが津波には弱いことが判明しました。シイ、タブ、カシなどは津波で倒れなかったことがわかりました。国土交通省はコンクリートの堤防を建設していますが、宮古市田老の防潮堤(コンクリートの10m高さの堤防)は津波で破壊されました。コンクリートは長い年月で劣化しますので永久構造物ではありません。ガレキを埋め立てて作る緑の堤防は優れたアイデアです。福島県南相馬市の海岸に緑の堤防植樹祭に3000人が集まったそうです。
宮城県岩沼市にある仙台空港は津波に襲われましたが、この一帯は起伏がない低地で、津波の時は避難する高い場所はないです。ここに横浜大学名誉教授の宮脇昭先生が緑の防潮堤と同じアイデアの「森の防潮堤」を推進しています。毎年春にボランテイアの参加者たちは宮脇先生が提唱する「生態学的植林法」で植樹祭を実施しています。私も現地を視察しましたが、小高い丘が築かれていてその周りが植林されていました。コンクリートの防潮堤よりはるかに柔軟に津波に耐える力があると感じました。コンクリートによる構造物は「グレーインフラ」と言うのに対し、植生による津波対策構造は「グリーンインフラ」と呼ぶのだそうです。生態学的に自然災害に立ち向かう方が長い年月を経れば経るほど強靭になると感じました。なんでも災害前の形に原形復旧を目指すのは生態学的には不自然と指摘されています。自然災害によって変化した生態学的環境を受け容れた上で、自然と共生する態度が大切だと思います。
【汚染土中間貯蔵施設】~解決不能な汚染処理水~原子力発電所の負の遺産
福島第一原発事故対策で除染などにより発生した汚染土は空き地や小学校跡などに一時的に保管されていますが、どこも満杯状態と言われています。そこで政府はこれらの汚染土を保管する中間貯蔵施設を福島県の双葉町、大熊町および楢葉町の3つの町に引受けを依頼して来ました。双葉町と大熊町は原発の立地町でほとんどが帰宅困難地域になっている一方で楢葉町は帰宅指示準備区域になっており比較的空気汚染が少ないです。そこで帰宅を視野に入れる楢葉町は中間貯蔵施設の受け入れを拒否しました。汚染土および廃棄物は1キロあたり10万ベクレル超とそれ以下の二つに区分して保管されます。10万ベクレル超の汚染土または廃棄物はドラム缶などに入れてコンクリート製の建屋に保管される予定です。汚染土の量は双葉町と大熊町が9割を占めているのに対し、楢葉町の量は少ないことも後押ししたと言えます。国は結局楢葉町を諦め双葉町と大熊町に中間貯蔵施設を建設しました。原子力発電所の事故は大きな負の遺産となりました。
【汚染水の放流】~止められない汚染水~漁民を無視した放流は不可能
福島第一原発の汚染水が国際的に問題になっています。1号機から3号機の原子炉に全体で毎日400トンの冷却水を注水しています。この他に裏山から400トンの地下水が原発用地に流れ込んでいます。東電はタンクを建設して汚染水を貯蔵していますが、タンクから漏水していることがわかりました。ALPSと呼ばれる除染装置で汚染水の除染をしていますが、間に合わない状態です。後に2 号機の圧力抑制室が損傷して汚染水が漏水していることもわかりました。1号機でも水漏れが生じています。護岸に近い場所の観測用の井戸から放射性ストロンチウムが1リットルあたり500万ベクレルの高濃度の汚染水があったと報道されましたが、東電は半年以上も隠蔽していました。国際原子力委員会(IAEA)は低濃度の汚染水を海に流す以外解決方法はないと言いましたが、当然福島県の漁協組合は反対するでしょう。いずれにしても汚染水は垂れ流しされている状態に近いです。
2020年時点で冷却済みの水の貯蔵は限界になり、蒸発処分か海への放流しか処分の選択肢がないと言われています。漁業が震災後9年経過してやっと市場に出荷できるまでになったのに、風評被害が再燃したら福島県の漁民は立ち行かなくなるでしょう。原子力発電の最大の問題は「トイレのない家」です。核廃棄物の処分ができない施設は狭い国土の日本には不要です。末代まで負の遺産に悩み続けるでしょう。