執筆:村井俊治、JESEA取締役会長、東京大学名誉教授
【津波対策の変遷】
~総延長400キロの防潮堤~防災と生業の両立は困難
大津波がきた後にどのような対策が取られてきたのでしょうか?1896年の明治三陸大津波の後は資産家の主導で高地移転が行われました。1933年の昭和三陸大津波の後は国および県の主導で高地移転が行われました。数箇所で防潮堤の建設も行われました。宮古市の田老地区の10mの高さの防潮堤はこのときに始められました。田老地区を取り囲むようにして建設された防潮堤は「田老の万里の長城」と言われました。しかし東日本大震災の津波ではこの万里の長城は一部破堤して犠牲者が出てしまいました。1960年のチリ地震津波の後の対策は防潮堤、津波防波堤、津波水門など構造物が主流を占めました。津波の高さが6mだったので力で抑えこめると考えたのでしょう。1993年に奥尻島が津波被害を受けた北海道南西沖地震津波の後は構造物、町づくり、避難などのハードとソフトを組み合わせた対策が取られました。
2011年の東北地方太平洋沖地震津波(東日本大震災)の後は構造物による防災と減災が国の方策であることが明記されています。多くの防潮堤や防波堤が破壊されたのにも拘らず構造物は津波のエネルギーを減少させ、最終的に津波を防げるという解釈です。しかし避難システムのソフト対策の有効性と重要性は今回の災害から教訓として学んだはずなのですが、日本の津波対策はハード面のみに重点が置かれています。
東日本大震災の時に襲ってきた津波の高さに対応して、岩手県、宮城県、福島県の3県で総延長400キロにわたり総予算1兆円を投じて、海岸沿いに岩手県で6.4m~15.5m、宮城県で2.6m~14.7m、福島県で7.2m~8.7mの高さの防潮堤が合計600カ所に建設されました。防潮堤に上らなければ海が見えなくなりました。果たして将来来るかもしれない巨大津波を防ぐことができるのでしょうか?
宮城県石巻市の新北上川河口に位置してカキ養殖をしている集落の住民は7mの防潮堤の建設に反対しました。東日本大震災の時は海側の丘陵地に守られて津波は直撃せず、水位だけが高くなり、住民全員が丘陵地に避難して助かっています。7mの防潮堤を作られたら円滑なカキ養殖はできないので防潮堤に反対するのは当然です。防潮堤を建設して津波を防ぐことができても生業はできなくなります。この集落の防潮堤反対の意見は通りましたが、宮城県はこの集落を居住困難地区に指定しました。夜間は寝泊りしてはいけないのです。昼間はカキ養殖をしてよいのですが、今まで住んできた集落には居住できなくなりました。30km離れた避難地区に住み、カキ養殖のために通勤しています。民宿をしていた住民は民宿ができなくなりました。私はこの集落を視察して元民宿を経営していた方に会いましたが、正直のところ行政判断は間違っていると感じました。自治体の意向に従わなかったからと言って住民の生活権を奪ってよいのでしょうか?
【大船渡港の津波防波堤】
~津波で破壊された湾口防波堤~ハード依存は危険
1960年のチリ地震津波で国内最悪の被災地となった大船渡港で、津波対策を目的に大船渡港に1963年に湾口防波堤が着工されました。国の直轄事業で19億円を投じ、4年後に完成しました。チリ地震津波想定の構造で、全長736メートル、最大水深38メートルの大防波堤でした。完成から40年以上経過して老朽化が進み、地元は大規模改修を要請し、大船渡港が国の「重点港湾」に選定され、改修が始まる見通しとなっていました。しかし東日本大震災の大津波で湾口防波堤は全壊しました。海から押し寄せる大津波の高さと速度は湾岸防波堤を手酷く破壊してしまいました。岩手県警のヘリコプターから撮影されたビデオ画像には津波で防波堤が破壊される様子が鮮明に記録されています。この防波堤が完成するときは地元の人たちは自然の力にこの防波堤が立ち向かえるかどうかは疑問に思ったそうです。時間が経過するに従い人々はこの防波堤が津波から町を守ってくれるものと思い込みだし、相当多くの人が津波から逃げずに命を落としたと報告されました。自然の猛威の前には人工構造物は絶対でないことを知っておくことが大切です。
東日本大震災で破堤した湾口防波堤は平成24年(2012)から復旧工事が進められ5年後の2017年に完成しました。新しい湾口防波堤は高さが国内最大で11.3mで震災前の2倍の高さになりました。総延長736mで工事費は250億円です。外海の海水が流入できるように開口部が複数設けられています。防波堤開口部の先端には19mの高さの灯台が設けられ船の安全な運航が可能になっています。
【釜石港の湾口防波堤】
岩手県の釜石港には世界最大水深(63m)の湾口防波堤が31年の歳月をかけて2009年3月に完成していました。中央に300mの開口部を設け、大型船の航路を確保し、その両側に北堤990mと南堤670mの2本の防波堤を配置し、市街地への浸水を減少させるのが目的でした。明治三陸地震津波規模の大津波を想定して、湾内の約4mの高さの防潮堤より低い水位に減水させて市街地を守ろうとしたものでした。
東日本大震災の津波は、設計値を超える大津波が押し寄せ、防波堤は大きく損壊しました。津波は湾内の防潮堤を越え、ハザードマップで想定していた浸水域よりはるかに大きな面積に浸水し被害を大きくしました。
釜石港の沖合約20kmに設置されていたGPS波浪計で最大6.7mの津波の高さが観測されました。この津波高をもとにして防波堤が無かった場合と有った場合を比較した結果、釜石港内の津波の高さは13.7mから8.1mに約4割低減し、釜石港須賀地区の大渡川沿いにおける津波の最大遡上高は20.2mから10.0mに約5割低減することが判明しました。湾口防波堤は破壊しましたが一定の効果はあったと考えることができます。計算結果の分析から、防波堤により、津波が湾内の防潮堤を越え浸水が始まった時間が6分間遅れており、水位上昇を遅延させる効果があったとみられます。
以上の分析結果を踏まえて、東日本大震災の津波で甚大な被害を受けた岩手県釜石港の湾口防波堤の災害復旧工事が、2012年2月26日に始まりました。被災前と同じ高さ(東京湾平均海面+5.1m)の防波堤を、約490億円を投資して2016年3月末までに再建しました。震災前の17函のケーソンは再利用し、北堤に37函、南堤に9函、合計46函のケーソンを新たに据え付けられました。陸地の防潮堤も一部かさ上げされ市街地を守ることが期待されています。しかしハード面でどんなに防災対策をしても想定外の津波が来たら再び破堤する危険はありますから「逃げるが勝ち」のソフト対策も是非組み合わせて欲しいと考えます。
【津波に耐えた土蔵】
~土蔵構造はコンクリートより強い?~
現代の人たちはコンクリート構造が一番強いと信じていますが、日本伝来の土蔵が津波に強かった例を紹介します。宮城県石巻市門脇町にあった本間家の土蔵が奇跡的に津波に流されずに残りました。本間さんの母屋と倉庫と1棟の土蔵は流されたのに、明治時代に建てられたもう一つの土蔵は漂流物が衝突して一部は壊れたが本体は全く無事でした。場所は日和山の南側で本間英一(62)さんの土蔵です。明治30年(1897)、明治三陸地震津波の翌年に建造されたもので、二階建てで「なまこ壁」の立派な造りです。しょうゆや味噌を製造してきた本間家の文庫蔵として使われ、江戸時代の交易記録や生活用品などを収めていました。東日本大震災の前年に壁に鉄筋を入れるなどして修理をしていたのが幸いしたのかもしれないと本間さんは言っています。震災に耐えた土蔵を残そうとして「復興メモリアル」の運動が起きているそうです。土蔵にあった古文書は浸水して泥をかぶりましたが、保存するそうです。過去にも別の場所で土蔵が津波に壊されなかった記録が残っています。土蔵の厚い土壁と防火用の重い扉に窓の少ない構造が津波にも強いことが証明されました。
【津波は逃げるが勝ち】
~津波てんでんこ~安否確認は逃げてから
岩手県三陸地方の方言で「津波てんでんこ」という言葉があります。津波では親子といえどもお互いに助け合わずに自分勝手に逃げなさいという教えです。明治29年(1896)6月15日に起きた明治三陸地震津波では地震の揺れが震度2~3程度と弱かったにもかかわらず、津波の高さは大きかったのです。津波を予想した人はほとんどなく大きな被害がでました。全く不意を突かれました。親が子供を助けようとし、子が親を助けようとして共に亡くなったケースが多かったと言います。この悲劇から親子でも助け合わずに自分一人で逃げなさいという「津波てんでんこ」の教訓が生まれたのでした。この教訓は昭和8年(1933)の昭和三陸地震津波でも活かされたと言われます。
「津波てんでんこ」の教訓は東日本大震災では釜石市の小中学校の教育で活かされました。釜石東中学校、鵜住居小学校の生徒たちが「津波てんでんこ」の教え通りに自主的に避難を始め全校生徒が助かったことで有名になりました。途中にあった幼稚園児も一緒に最初は指定された避難所に行きましたが、生徒たちはそこも危険と判断してさらに山の方に逃げて全員助かったのです。
昭和三陸津波で「小学校の校長をしていた父(私の曽祖父)は財布を取りに行って死んだ」と、私の祖母は話してくれました。祖母は大人の背中に背負われて山の方に逃げて助かったそうです。私には繰り返し津波の時はとにかく逃げなさい、と話してくれました。
東日本大震災の時に多くの人がミスを犯しました。ケータイで家族や友人の安否確認をして逃げ遅れて犠牲になった方もいたのです。気が付いた時は津波がすぐ目の前に来ていたと言います。安否確認をしてから逃げるのではなく、逃げてから安否確認をするようにしたほうがよいです。
【防潮堤がなくても避難で救命】
~普段の避難訓練が大切~避難路の整備
岩手県宮古市鍬ケ崎地区の角力浜(すもうはま)は40世帯、110人が住む小さな漁村です。約4割が65才以上の高齢者が住む集落です。基幹産業の漁業を優先するのと、地形の関係で防潮堤を建設する場所がない理由で防潮堤を建設しないできました。その代わり津波から避難する訓練を重ねてきました。岩手大学の協力を得て如何に早く避難できるかを学習してきました。2006年には高台に通じる130mの避難路を整備し、9箇所に誘導標識を設置しました。年に一度は実践的な避難訓練をしてきました。避難誘導に矢印を記入した独自のハザードマップを作成し、全戸に配布しました。足の悪い老人をリアカーで運ぶ訓練や、実際に歩いてみて避難路を修正したりしてきました。東日本大震災の津波は高さ8mで漁村の内陸300mまで襲ってきました。このため大半の家は全半壊しました。しかし1人を除いて村民は無事地震発生から10分で予め決めていた高台に避難したということです。この角力浜は防潮堤を造らなかったために、「津波に最も無防備な地帯」と言われてきましたが、村民の防災への意識は最も進んでいたのです。
【津波から釣り人を守る八則】~津波から命を守る8原則
秋田県つり連合会が平成9年に「釣り人を守る八則」を発表しました。この内容は「津波から命を守る八則」とも解釈できるものですので紹介します。
- 地震則津波と思うこと
- 救命胴衣を着用すること
- 小型ラジオやポケットベルを持参すること
- 津波と思ったら体一つで逃げること
- 船では沖に逃げること
- 海に落ちたら長靴や衣類を脱ぐこと
- 津波警報の正しい情報を得ること
- 津波の速度は飛行機並みであることを認識すること
以上が八則です。釣り人でなくても海のそばに住む人はこの八則はそのまま教えになるはずです。大きな地震がきたら津波も来ると思う方が安全です。東日本大震災の津波で冬のダウンコートを着ていたために体が浮いて助かった人がいました。ダウンコートは救命衣の替わりになることもあるようです。
「大事な物を探さないで身一つで逃げろ」は鉄則です。命を守るためには物に執着してはいけません。漁船で沖に逃げて助かった人たちがいました。水深70m以深の沖合に逃げれば津波の波を乗り切れるそうです。昔から漁民の間では津波では沖合に船で逃げることを先輩から聞かされていたと言います。靴を履いていたら泳げないです。津波警報は絶対正しいわけでないので、自分で判断するのも大切です。しかし津波警報を聞く準備としては、手回しでも聞ける小型ラジオを用意しておくことをお勧めします。電池が不要ですので便利です。懐中電灯も手回しの品を準備することをお勧めします。