画像出典:NASA
執筆:村井俊治、JESEA取締役会長、東京大学名誉教授
【死者ワースト記録】
~死者数ワースト13位までのランキング~
過去の大地震の記録は様々な古文書・資料・記録にありますが、信用できるのは過去400年前ぐらいと言われています。400年以上前の地震であっても古文書などの記録に残っている巨大地震を加えて様々な切り口でワースト記録を調べてみました。最初に死者ワースト記録と主な原因・特徴を掲載します。死者数は資料により異なりますが目安と思ってください。1700年代の18世紀には4回も一万人以上の死者が出た大地震が起きました。
第1位 | 関東大震災(1923年)約10万5千人…死者の殆どは火災による |
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第2位 | 明応地震(1498年)約4万1千人…南海トラフ三連動地震・津波とされる |
第3位 | 鎌倉大地震(1293年)約2万3千人…多数の神社仏閣が崩壊、土砂崩壊 |
第4位 | 明治三陸地震・津波(1896年)約2万2千人…津波被害が甚大 |
第5位 | 宝永地震(1707年)約2万人…南海トラフ三連動地震、富士山噴火あり |
第6位 | 東日本大震災(2011年)約1万9千900人…死者の殆どは津波による |
第7位 | 島原大変肥後迷惑(1792年)約1万5千人…雲仙岳火山性地震と肥後津波 |
第8位 | 八重山地震・津波(1771年)約1万2千人…沖縄地方で明和の大津波あり |
第9位 | 元禄地震(1703年)約1万人…相模トラフの海溝型地震 |
第10位 | 善光寺地震(1847年)8,147人…直下型地震。犀川河道閉塞・決壊あり |
第11位 | 安政江戸地震(1855年)7,444人…震源は荒川河口付近。直下型地震 |
第12位 | 濃尾地震(1891年)7,273人…震源は根尾谷断層帯。内陸地殻内地震。 |
第13位 | 阪神淡路大震災、1995年、6,434人…兵庫県南部に激甚災害。高架橋転倒。 |
以上のワースト記録の内、東京・首都圏に直接的な被害があった(または被害があったと推定される)地震は、第1位の関東大震災、第3位の鎌倉大地震、第9位の元禄地震、第11位の安政江戸地震です。
現在騒がれている南海トラフ地震関連は、第2位の明応地震、第5位の宝永地震です。1707年の宝永地震の発生後49日後に富士山の大噴火があり、静岡県、山梨県、神奈川県には火山灰が大量に降り積もり、洪水や飢饉などの大被害が出たと言います。富士山噴火の被害から復興までに100年かかったと言われています。江戸にも降灰があり相当の被害がありました。
東北の三陸地方は地震によって引き起こされた津波による被害が甚大ですが、過去には第4位の明治三陸地震・津波と第6位の東日本大震災があります。私の曽祖父は明治三陸地震の津波で亡くなったと祖母から聞かされていました。曽祖父は財布を取りに行って亡くなったそうで、祖母は大人の背中に背負われ山の方に逃げて助かったと言います。
【犠牲者千人以上の大地震】
~大地震はランダムに起きる~統計確率は意味がない!
前に死者ワースト記録第13位まで掲載しましたが、明治以前は正確な統計値ではないため、順位は必ずしも正確ではないです。千人以上の死者の地震の頻度を調べてみました。
記録がかなり正確といわれている400年前からの千人以上の死者が出た地震を調べますと、
- 1605年の慶長地震
死者は5千人とも1万人または2万人とも言われています。
慶長地震は南海トラフで起きた地震で津波の大被害がでました。 - 1611年の会津地震
- 1611年の慶長三陸地震
- 1662年の寛文近江・若狭地震
- 1666年の寛文高田地震
- 1703年の元禄地震
- 1707年の宝永地震
- 1741年の北海道西南沖地震
- 1751年の越後・越中地震
- 1766年の津軽地震
- 1771年の八重山地震
- 1792年の島原地震
- 1828年の越後三条地震
- 1847年の善光寺地震
- 1854年の伊賀上野地震
- 1854年の安政東海地震
- 1854年の安政南海地震
- 1855年の安政江戸地震
- 1891年の濃尾地震
- 1896年の明治三陸地震津波
- 1923年の関東大震災
- 1927年の北丹後地震
- 1933年の昭和三陸地震津波
- 1943年の鳥取地震
- 1944年の東南海地震
- 1945年の三河地震
- 1946年の南海地震
- 1948年の福井地震
- 1995年の阪神・淡路地震
- 2011年の東日本大震災
400年間で13個(平均13年に1回)の大地震がありました。大地震の起きた年を見ますと、50年も起きていない時もあるし、連続的に起きた時もあります。
大地震の回数が多い世紀は20世紀が9回、19世紀が8回、18世紀が7回でした。
上記の30個の地震が起きた間隔の年数を調べますと、6年、50年、1年、4年、37年、4年、34年、10年、5年、5年、21年、36年、7年、0年、0年、1年、36年、5年、27年、4年、6年、10年、1年、1年、1年、2年、47年、16年となります。千人以上の死者が出た大地震の起きた間隔は全くランダムなことが分かります。
(15)1854年の伊賀上野地震 (16)1854年の安政東海地震 (17)1854年の安政南海地震(18)1855年の安政江戸地震 まで2年で4回も大地震が起きました。
世界第二次大戦前後の(24)1943年の鳥取地震 (25)1944年の東南海地震 (26)1945年の三河地震 (27)1946年の南海地震 (28)1948年の福井地震 までの6年間に5個の大地震が連動して起きました。
以上の記録を見ますと、特定地域での「XX年説」や「XX年にYY%」の確率などの統計値はあてにならないことが分かります。日本は戦争からの被災・被害から大復興を遂げましたが、1948年の福井地震から1995年の阪神淡路地震までの47年間大地震がなかったことが分かります。日本の経済成長が一番好調だった時に大地震が来なかったという幸運に恵まれていたのです。この間に1964年の東京オリンピックと1970年の大阪万国博覧会を開催できたのは本当に運が良かったと言えます。
このような大地震の記録を見てみますと、統計確率論で地震の予測をすることは無意味であることが分かってきます。地震の前に起きる様々な前兆現象を科学的に観測することで地震予測からさらに地震予知の方法を確立することの重要性が分かります。
【大津波を起こした地震】~南海トラフ地震の恐怖~
山津波にも注意!~津波堆積発掘調査
過去の大津波は、
- 684年の白鳳地震(南海トラフ三連動)
- 701年の大宝地震津波(京都、福井)
- 869年貞観地震津波(陸奥国)
- 887年仁和地震津波(南海トラフ三連動:五畿七道)
- 1026年万寿地震(島根県:津波堆積物確認)
- 1293年鎌倉地震津波(津波堆積物確認)
- 1498年明応地震津波(東海地方)
- 1611年慶長三陸地震津波(津波の語句が初めて使用された)
- 1707年宝永地震(南海トラフ三連動:49日後に富士山の噴火あり)
- 1771年八重山地震
- 1792年島原大変肥後迷惑地震津波
- 1854年安政地震津波
- 1896年明治三陸地震津波
- 1933年昭和三陸津波
- 1944年昭和東南海地震津波
- 1946年昭和南海地震津波
- 2011年の東日本大震災
などです。
1498年の明応地震では鎌倉の大仏まで津波が押し寄せました。大仏殿が押し流されたと言う説がありますが真偽のほどは分かっていないようです。1771年の八重山地震では28丈(85m)の高さの津波があったという記録はありますが、真偽は不明です。
津波は主に地震で起きます。しかし全ての地震が津波を誘発するわけではありません。津波は地震以外にも火山の噴火で山塊が海に崩落して起きたこともあります。地震で土砂崩壊が起き河道を閉塞し天然ダムができますが、そのダムが決壊して大量の水が下流に流れるのを「山津波」といいます。
1847年5月に長野県の善光寺地震と余震によって虚空蔵山と呼ばれる山が崩れ、犀川を堰き止め、天然ダムができました。雪解け水も流入しこの天然ダムは30km以上上流まで延び、数十ヵ村が水没しました。19日後に天然ダムの決壊が起き、下流一帯に山津波が起きました。小市という村では山津波の高さが21mに達し、50kmほど下流の飯山でも4mの高さがあったといわれています。この山津波によって100人余りが亡くなりました。1858年4月に起きた富山と新潟の県境付近を震源とする飛越地震(飛騨と越中)では、立山連峰の大鳶(おおとんび)山と小鳶山で大崩壊が発生しました。これにより富山平野に流れ込む常願寺川の上流の真川と湯川の2本の川が堰き止め、天然ダムができました。地震から2週間後に地震があり、湯川を堰き止めていた天然ダムも決壊し山津波が起きました。飛越地震から2ヶ月後には真川の天然ダムも決壊し、山津波が富山平野を襲いました。この2回の山津波で流失もしくは全壊した家屋は1600戸、140人の死者を出しました。
天然ダムの決壊による山津波でなくても地震によって引き起こされた土石流の被害も甚大になることもあります。有名な話では1923年の関東大震災では神奈川県の小田原市根府川駅に東海道本線の列車が入線する直前に、地震によって生じた土石流のために列車が海まで流された被害があり、112人が亡くなったと言われています。
古文書に書かれていない大津波は、発掘により津波の堆積層を見つけ、津波の起きた年代を推定することができます。発掘でわかっている大津波を紹介します。三陸地方では、紀元前4000年、1500年、1000年ごろ大津波があったことが分かっています。仙台付近では、紀元前800年および紀元前100年に大津波がありました。高知県土佐市では約2000年前に大津波があったことが発掘調査で分かりました。
【南海トラフ三連動地震】~南海トラフ地震の地震予測は?
~科学的変動解析と地震予測
南海トラフを震源とする東海・東南海・南海地震の三連動地震は東日本大震災の後で一番危惧されている地震です。三連動地震が起きたら、32万人の犠牲者が出るとのシミュレーション結果が発表され、津波は高知県黒潮町で最大34mの津波が想定されると発表されました。伊豆地方でも20mクラスの津波が想定されています。南海トラフとは、四国の南の海底4000mの水深にあって東南東方向に伸びている海溝(トラフという)で北端は駿河湾です。その延長に富士山があります。富士山は、北米プレート、フィリピン海プレートとユーラシアプレートの3つのプレートの交点に立っているとても敏感な山です。太平洋の南側は西から南海、東南海、東海と三つの地域に分けています。三つの地域で同時(または殆ど同時期)に起きる地震を三連動地震といいます。南海トラフ三連動地震が起きたときは地震の前または後で富士山が噴火した記録があります。有名な三連動地震は1707年の宝永地震津波です。2万人の犠牲者が出ました。地震の49日後に富士山が噴火しました。火山灰による二次被害が関東地方に起きました。1707年の富士山の大噴火以来約300年間大きな噴火は起きていません。
1854年の安政東海地震、1日後に安政南海地震が起きました。駿河湾、紀伊半島、四国、九州と広被害が出ました。最近では1944年、1946年に昭和東南海地震および昭和南海地震が2年間隔で起きました。
JESEAが2013年に(株)地震科学探査機構を設立して以来、測位衛星を用いた全国1300点の電子基準点の変動解析してきた実績がありますので南海トラフ地震に対する科学的見解を述べたいと思います。日本列島は太平洋岸南端のベルト地帯および根室釧路地方を除いて、南東方向に変動をしています。一方太平洋岸南端のベルト地帯および根室釧路地方は逆方向の北西方向に変動をしています。つまり押し合いをしている状態です。太平洋岸南端のベルト地帯および根室釧路地方はミニプレートで同じミニプレートを形成しています。フィリピン海プレートの一部となっています。地震学や地球物理学などのプレート図を見ると南海トラフ以南がフィリピン海プレートになっていますが、JESEAは科学的解析から太平洋岸南端のベルト地帯はフィリピン海プレートの一部で北端と解釈しています。
主たる日本列島の南東方向の変動と太平洋岸南端のベルト地帯の北西方向の変動が拮抗している間南海トラフ地震は起きないでしょう。この押し合いの拮抗状態が崩れてどちらかの勢力が大きくなり溜まったひずみが限界を超えた時に南海トラフ地震が起きると考えております。
太平洋岸南端のベルト地帯および根室釧路地方は常に沈降状態を維持しています。四国の足摺岬、室戸岬、紀伊半島の潮岬、御前崎、伊豆半島南端、房総半島南端の沈降傾向や水平変動の向きと大きさなどの異常変動には常に監視の目を光らせています。伊豆諸島、小笠原諸島および沖縄県の大東諸島はフィリピン海プレートの動きをしていますので、これらの島にある電子基準点の変動には特に注意しています。
【地震と富士山噴火】~南海トラフ地震と
富士山噴火の連動~富士山の電子基準点は重要
今回の東日本大震災では、富士山の頂上付近にある電子基準点のデータによりますと、高さが地震直前13日前に2.1cm隆起し、地震の予兆を感じさせました。箱根の電子基準点も直前に大きく隆起しています。富士山は地震直後に大きく沈降しました。富士山の電子基準点は時々欠測がありますが、とても重要な位置の電子基準点で、JESEAでは常にその挙動を注意深く見ています。
富士山は休火山(最近の火山学では死語になっている)ではなく活火山であると言われています。東日本大震災は、太平洋プレートと北米プレートの境界付近が震源ですから、富士山の噴火には繋がらないでしょう。南海トラフの三連動地震が起きると富士山が噴火する危険はあります。富士山の噴火に関する古文書では、781年以降16回の噴火が記録されています。平安時代に800年から1083年までに10回の噴火が記録されています。864年(貞観6年)に大噴火があった23年後の887年に仁和地震(五畿七道におよぶ三連動地震)がありました。これはかなり間隔が空いています。はっきり地震と連動して起きた噴火は、1707年の宝永地震で49日後に噴火があり、これが富士山の最後の大噴火です。1703年の元禄地震の時は富士山が鳴動し、1854年の安政東海地震では噴気(一部小噴火)、1923年の関東大震災では噴気を記録しています。地質調査から約3000年前の縄文時代後期に4回の爆発的噴火があったことが分かっています。
【連続的に起きた地震】~短期間に複数の大地震が発生するケース~大地震の後は警戒!
短期間に大地震が連続的に起きることがありました。プレートが大きな地殻変動をして、短期間にはその変動が収まらなかったのでしょう。ここでは10年以内に連続して大地震が起きた事例を拾ってみましょう。869年貞観三陸地震・津波、878年元慶地震(南関東)、887年仁和地震・津波(南海トラフ三連動地震)の3つの地震は9年間隔で起きました。1096年永長東海地震・津波、1099年康和南海津波は3年間隔で連動して起きました。1498年には明応地震が東海地方と南海地方とで数ヶ月違いで連鎖的に起きました。1605年慶長地震津波(東南海)と1611年慶長三陸地震津波は、震源が離れていますが、わずか6年違いで大地震と大津波が起きています。1703年の元禄地震(南関東)と1707年の宝永地震・津波はわずか4年違いでした。江戸および関東地方は地震と富士山の噴火によって激甚被害(飢饉を含む)がありました。1891年濃尾地震(岐阜県)と1896年明治三陸地震津波は、5年違いです。1944年昭和東南海地震(津波10m)と1946年昭和南海地震は、2年違いですが南海トラフの連動地震であると言えます。1993年に6ヶ月違いで釧路沖地震と北海道南西沖地震津波が起き、1994年に北海道東方沖地震津波が起きています。
2011年3月11日の東日本大震災の余震とも言えますが、M6以上の大きな地震が約1か月以内に9回も連続して起きました。震源の位置は茨城県沖、三陸沖、新潟県中越地方、静岡県東部、茨城県北部、福島県浜通り、宮城県沖などで、福島県浜通りでは3回も起きています。
【首都圏直下型地震】~過去の首都直下地震~
地震予知はできるのか?~死者の数は?
東日本大震災で関東地方が大きく揺れたことから、フィリピン海プレートが北米プレートに沈み込んでいる境界の相模トラフに影響が及び、首都圏直下型地震が起きるのではないかと危惧されています。2013年、地震調査研究推進本部は、首都圏に「この30年間にM6.7~M7.2の地震が発生する確率は70%ある」と発表しました。
過去の主な南関東直下地震の年、マグニチュード、死者の数、震源を調べてみました。
1703年 | 元禄地震(M8.1:死者1万余人、千葉南方沖) |
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1855年 | 安政江戸地震(M7.0::死者1万人弱、東京湾) |
1894年 | 明治東京地震(M7.0:死者31人、荒川河口付近) |
1895年 | 茨城南部地震(M7.0:死者9名、霞ヶ浦付近) |
1923年 | 関東大震災(M7.9:死者11万人、神奈川県相模湾または西部) |
1924年 | 丹沢地震(M7.3:死者19人、負傷者638人、南足柄市付近) |
1930年 | 北伊豆地震(M7.3:死者272人、静岡県伊豆) |
1978年 | 伊豆大島近海地震(M7.0:死者25人、負傷者211人、伊豆大島近海) |
などがあります。
南関東には、綾瀬川断層、立川断層、神縄・国府津―松田断層帯、伊勢原断層、三浦半島断層群、鴨川低地断層帯などの活断層があり、これらの活断層付近で地震の被害が大きいと心配されています。
首都直下地震に関してJESEAの見解を述べたいと思います。首都圏、特に東京は利根川、荒川などの河川氾濫原を江戸時代に河川改修し、さらに東京湾を埋め立てて都市化した土地なのでいわば軟弱地盤の上にできた都市と言えます。首都圏直下地震では山の手の高台の土地は比較的被害が少なかったのに対して、深川や浅草など低地は甚大な被害に遭遇してきた歴史があります。
首都圏は富士山の火山灰による関東ローム層で覆われ、地表では断層は見えない状態です。断層の有無から地震を予測する根拠にするのは科学的に意味がないでしょう。震源が首都直下でなくても地盤が悪い首都圏は大きく揺れ、被害が大きくなる土地柄になっています。関東大震災の震源の位置は4つの学説があります。相模湾に二つ、神奈川県西部および山梨県です。いずれも首都圏直下ではないです。
地震予知を過去の大地震の記録から確率統計的に「XX年にYY%の確率で起きる」と発表するのは「いつかは大地震が起きる」という程度の意味しかないでしょう。
M7クラスの地震が首都圏周辺を震源として起きる場合には、おそらく2日または1日前の直前に電子基準点データにプレスリップが現れるはずです。東日本大震災の2日前から明らかにプレスリップが現れましたから十分根拠のある予知方法であると考えます。ただし東京都にある国土地理院の電子基準点は周辺に高層ビルなどがあり、受信信号にノイズが多い欠点があります。上空視界の良好な場所に自前観測点の設置をすれば予知はできると信じます。首都直下地震が起きたら数万人の犠牲者が出ると予想されています。
【史上最大の明和の大津波】
明和8年(1771)4月24日沖縄県宮古、八重山諸島を襲った大津波は、震源地を石垣島南南東40km、マグニチュード7.4の地震(八重山地震と呼ばれる)によるものです。津波の高さは宮良牧中(現在の石垣市宮良村)で85.4m(記録にある28丈2尺を換算)まで遡上した史上最高記録です。信じられない数字ですね。実際には30mぐらいの高さだったのではないかと言われますが、記録は85.4mとあるのです。石垣島では東側から西側に向けて津波の怒涛が島を突き抜けたと言われます。石垣島を含む八重山諸島で9,313人の死者が出ました。宮古諸島でも2,548人が犠牲になりました。人口が少ない島で合計約12,000人が亡くなったのですから壊滅状態だったと言えます。津波のためにサンゴ礁が破砕され島の奥地まで運ばれ津波の形跡を留めています。津波の後で起きた飢饉や疫病の蔓延で人口が衰退したと言われます。下地島の帯岩と呼ばれる巨岩は八重山地震津波で海岸に打ち上げられたと考えられています。伊良部島の水中に点在する巨岩は津波で流されてきたものとされています。