Opinion

予知から防災へ~先人の訓え~東日本大震災の教え

執筆:村井俊治 (株)地震科学探査機構取締役会長、東京大学名誉教授

 

【祖母から教えられた津波の悲劇】
~津波を逃れた人の訓え~東日本大震災の教訓

2011年3月11日、東日本大震災が起き約2万人の犠牲者が出ました。津波による被害の余りの甚大さに日本中が絶望感に打ちのめされました。何でも良いから一人一人ができる社会貢献をしようという声が上がりました。実は私は約5週間前に電子基準点データに尋常ではない異常が現れていたのを知っていました。発信する手段を持っていなかったことから、この巨大地震の前兆を発信できませんでした。もし発信していれば、多くの命を救えたはずだと悔悟の念に落ち込んでいました。

私はせめてネット、新聞、テレビ、雑誌などに取り上げられた被災者の体験談を整理しておくことが私にできることだと考えました。なぜなら私の曽祖父は明治三陸津波で財布を取りに行って逃げ遅れ犠牲者になったと祖母から聞かされていたのです。祖母は「どんなに大切なものを忘れても決して取りに行ってはいけない」、「お金や大切な物は償えるけれど亡くした命は再び戻せない」と何度も教えられてきました。生き延びた先人の訓えほど貴重なものはないことを体験しました。

大学の先生方や地震・津波の専門家が言うことよりも、生き延びた体験者の声の方がはるかに防災に役立つと思いました。と言う訳で生き延びた体験者の声を編集して、2011年8月1日に古近書院から『東日本大震災の教訓―津波から助かった人の話』という本を出版しました。

 

以下に一部を紹介したいと思います。この本には地震・津波の直接の被害のほかに福島第一原子力発電所の事故に関しても私の見解を述べました。

 

【石碑に刻まれた先人の訓え】~先人の訓えは防災の基本~

東日本大震災の大津波で多数の犠牲者が出ましたが、石碑に刻まれた先人の訓えを守って、命を救った事例があります。一方で石碑があったのに、苔むすままにして、犠牲者が出て、後で石碑に大切な訓えが書かれていることが分かった事例もあります。明治三陸地震津波(1896年)および昭和三陸地震津波(1933年)が起きた時に、海岸近くにあった岩手県宮古市姉吉村は壊滅的な被害に遭いました。昭和津波の後で標高60mの高台に村ごと移転し、津波が襲った一番高いところに石碑を建てて、「高き住居は児孫の和楽/想へ惨禍の大津波/此処より下に家を建てるな」という文字を刻み、石碑より高い台地に村を作りました。今回の津波では村民はすぐさまに海岸から高台の村に避難して難を逃れました。一方、宮城県気仙沼市階上(はしかみ)地区の地福寺境内には石碑があり、「後世に不朽とするため石に刻む」と漢文で書かれていました。明治地震津波で437名の犠牲者が出たのです。しかしこの石碑の訓えを知らずに今回は150人以上の犠牲者が出てしまいました。宮城県東松山市にある石碑は貞観地震津波(869年)で二つの津波がぶつかったと言われる場所に建っています。今回の津波ではここまで津波がきましたが、住民はさらに高い場所に避難して無事でした。

【昔の街道と宿場は無事だった】
~先人は津波防災の達人~失敗・体験から学ぶ

東北大学東北アジア研究センターの平川教授らの調査によりますと、宮城県南部の太平洋岸に平行に作られていた江戸時代の旧街道(浜街道と呼ばれる)とその沿線にある宿場は今回の津波で被災していなかったことが判明しました。宮城県岩沼市から坂元町までの浜街道は海岸から約6kmの内陸部に海岸と平行して走っていますが、今回の津波では一歩手前で津波を免れました。

浜街道は、今の常盤自動車道よりさらに西を走っています。北から南に向かって、岩沼宿、亘理宿、山元宿、坂本宿の旧宿場も津波の被害を受けなかったのです。これに比べて鉄道の常磐線は海岸近くを平行に走っていましたので甚大な被害を受けてしまいました。常盤自動車道の延伸として仙台空港に向かう仙台東部道路(東日本高速道路株式会社)は、盛土区間が多く、今回の津波では、この道路に避難した者が助かりました。もし道路や鉄道を海岸近くに並行に走らせるなら、十分な高さの盛土か高架橋にする必要があるでしょう。海岸から直角方向に走る避難道路も同じことが言えます。

東北自動車道は片道三車線だったので、高速道路の復旧が早かったと言われます。1車線はがけ崩れで不通になってもあと2車線あれば何とか交通できるように復旧しやすいです。高さだけでなく車線の多さも大切です。

 

【津波に関連した史跡】
~除災祈願の神社は津波に安全~歴史に学ぶ

津波に関連した史跡や神社があります。東日本大震災の津波を避けた宮城県多賀城市の史跡「末の松山」と仙台市の浪分神社を紹介しましょう。末の松山は多賀城駅から10分くらいの末松山宝国寺の境内にある古松のある小高い所です。百人一首で歌われている「契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山なみこさじとは」(後拾遺和歌集)の歌碑が刻まれた石碑があります。この歌は、清少納言の父親の清原元輔が歌ったものです。今回の津波では周りは津波に襲われたのに、末の松山は津波の被災を免れました。正に「なみこさじ」だったのです。

仙台市若林区にある浪分神社は、明治38年に稲荷神社から今の名前に改称されました。1611年慶長三陸地震津波の時にここで津波は二つの波に分かれ、その後津波が引いたという伝説が伝わっています。天保6年(1835年)に襲った仙台地震・天保大津波とその後の洪水や飢饉で甚大な被害が出ましたが、稲荷大神に加えて海神を合祀して、1836年に石造り神明造の鳥居を奉納して除災祈願をしてから津波の被害はなくなったと言われます。今回の津波も大丈夫でした。福島県いわき市にある9つの神社と1つの寺は、1つの神社以外は一歩手前で津波を免れました。昔の人は、津波の浸水線をしっかり調査していたことが分かります。

宮城県松島市の宮古島の島民の間には昔からの言い伝えがありました。貞観11年(869)の貞観津波では二つの津波がぶつかって多くの島民が亡くなりました。津波がぶつかった場所には石碑が立っていてそこより下は危険と言い伝えられ、島民千人はこの教えを守り助かりました。

 

【津波からの避難訓練】
~津波被害を想定した訓練~ハザードマップを信じるな!

岩手県宮古市の角力浜(すもうはま)は海岸の地形から防潮堤を作ることは難しく、防潮堤がないために、津波に最も無防備な村と言われていました。それだけに村民たちは避難訓練を繰り返していました。避難路を整備し、老人たちを運べるリアカーの通れる道を整備していたのです。東日本大震災の時も、普段の訓練通りに高台に非難して村民110人は助かったのでした。

宮城県仙台市若林地区に住むある住民は、津波の専門家にハザードマップで避難所に指定されている東六郷小学校が津波に対して安全か否かを聞いたところ、決して安全でないと言われました。そこで1.5万人の署名を集めて、小学校よりさらに高い位置にある仙台東有料道路を避難箇所に指定してもらう要望書を提出しました。しかし仙台市はこの要望書を無視しました。東日本大震災の時にこの住民は仙台東有料道路に300人とともに逃げて助かりました。眼下に見える東六郷小学校は小学校の2階まで津波が押し寄せていたそうです。

指定された避難所に避難したけれど津波にのみ込まれた人たちもいました。岩手県山田町は船越地区の「小谷鳥コミュニテイセンター」を指定避難所にしていました。津波の時にこのセンターに12,3人が避難しましたが11人が亡くなったと言います。漁業を営む方は父親と一緒にこのセンターに避難したそうですが、防潮堤を超える津波を見て単身裏山の斜面に駆け上り助かりました。しかし父親を救うことができなかったと言います。

岩手県大槌町で喫茶店を営む女性は地震直後に避難所に指定されていた広岸寺に避難しました。しかし広岸寺の本堂は人が充満していました。幼い時に祖母から「変な揺れがあったら寺の裏の白山に逃げろ」と言われたことを思い出し、すぐに裏の高台に逃げて助かりました。寺の本堂は津波に飲み込まれ避難した約30人は亡くなりました。この寺は1960年のチリ地震津波の時は津波が来なかったと言います。

岩手県山田町のある小学校校長の母親は尋常小学校4年生の時に昭和三陸津波(死者・行方不明合わせて約3000人)を体験していました。東日本大震災の時はこの母親は88歳の高齢でした。校長の長男から、漁業生産組合の事務所にこの老齢の母親に電話があり、「津波が来るから逃げろ」と言われ、世話係は老女を車に乗せて親類宅に避難したそうです。しかしこの老女は車から降りずに、頑強にさらに高い高台を目指すように言い張りました。別の親類宅に行きましたが、鍵がかかっていたこともあり、二人はさらに高い台地に立つ公民館に逃れて難を避けたと言います。最初に立ち寄った親類宅は1階まで浸水し、2回目の寄った親類宅はガレキの山だったそうです。体験者の意見は生きた教訓です。

読売新聞によりますと、ハザードマップで避難所に指定された場所が津波に流されたワーストスリーは、陸前高田市の68カ所中35カ所(51%)、南三陸町の78カ所中31カ所(40%)、

女川町の25カ所中12カ所(48%)です。指定避難所の40%から50%が被災したことになります。先祖の言い伝えや体験者の意見の方が役に立つことが分かります。自治体の指定避難所を鵜呑みにしないで自分で避難場所を決める態度が求められます。

 

【明暗を分けた咄嗟の判断】
~避難マニュアルを信用するな~地元の人の声を聞け!

東日本大震災の地震が起きた時に、JR仙石線(仙台と石巻を結ぶ鉄道)の野蒜駅(のびる)を出発した上下2本の電車がありました。一時は上下線とも行方不明と伝えられましたが、上下2本は明暗を分けて結果となったことが後で分かりました。

上り線は4両編成で仙台の「あおば通」行きの普通電車でした。上り線は午後2時46分に野蒜駅を出発した直後に激しい揺れに襲われました。緊急停止の信号が告げられ、停車した時は駅から700mを進んだ地点でした。JR東日本の内規では災害で緊急停車した時は、乗務員は乗客を指定避難所に誘導するように決められています。この時の指定避難所は約300m離れた野蒜小学校の体育館でしたので、乗務員は乗客46人をこの体育館に誘導しました。運が悪いことに乗客が体育館に避難した直後に津波がこの体育館に押し寄せ、数人が亡くなりました。乗務員は幸運にも津波で死なずに済みました。電車は津波で脱線して「く」の字に曲がっていたそうです。

一方下り線は4両編成で石巻行きの快速電車でした。出発直後突き上げるような衝撃があり、小高い丘の上で停車しました。車掌らは乗客約50人を3両目に集めて指定避難所に誘導しようとしました。この時、野蒜地区に住む男性の乗客が避難誘導を制止しました。「ここは高台だから車内にいた方が安全だ!」と叫んで車外に出ることを止めました。乗務員および乗客全員この指示に従うことに決めたそうです。津波は小高い丘の手前まで襲ってきたそうです。丁度丘の一番高い場所に電車が止まったのでした。電車がちょっと前でも後でも被災したと言います。乗客らは真っ暗な車内で一夜を過ごし翌日全員救助されたといいます。

上り線と下り線の対応は明暗を分けてしまいました。マニュアルに従った乗務員を責めることはできません。下り線に乗り合わせた地元の乗客の意見に従った乗務員と乗客の咄嗟の判断が命を救ったのでした。

私は震災3か月後に現地を視察に行きました。野蒜駅から歩いて行きました。電車が止まったと言われた場所は、そこだけが小高い丘になっていて線路は左にカーブしていました。丘の下は一面の水田地帯でした。偶然停車した場所は運が良かったとしか言いようがない丘の最高地点だったのです。野蒜体育館に避難した人たちは体育館の床にいたわけですが、生徒たちは二階の観覧席に逃れたと言います。体育館の床に避難した人たちが津波に翻弄されて亡くなるのを階上から目撃したと言います。まさに生き地獄のような光景だったと報告されました。

私は野蒜小学校も視察しました。校舎の3階までは津波が来なかったですし、屋上も安全でした。野蒜小学校のすぐ裏にある山道は安全だったのに、なぜ低い体育館を指定避難所にしたのか残念な思いがありました。小学校の敷地の隣の民家はやや傾斜の付いた坂の途中にありましたが、津波は届かなかったと言います。ほんのわずかな高さの差だったのです。

野蒜地区周辺の住宅地および野蒜駅そして仙石線は山の方に移設されました。何年先か分かりませんが、次に襲ってくる巨大地震の津波からは同じような悲劇は避けられるでしょう。亡くなった方々の冥福を祈らざるを得ませんでした。

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