Opinion

三河地震【第1部】昭和東南海地震──静かなる前兆と破局の幕開け

昭和19年12月7日。太平洋戦争の戦局が厳しさを増していた日本に、ひとつの自然災害が襲いかかった。午前1時36分、紀伊半島沖を震源とする巨大地震が発生。後に「昭和東南海地震」と名づけられたこの地震は、三重県、愛知県、和歌山県を中心に広範囲に被害を及ぼした。

この日が、奇しくも3年前の開戦記念日(真珠湾攻撃)の現地時間であったこともあり、当時の政府・軍部にとっては象徴的な意味合いも含まれていた。だが、それ以上に衝撃的だったのは、民衆にとっての突然の惨禍だった。

被災地では、民家や土蔵が相次いで倒壊し、海岸部では津波が押し寄せた。津波による被害は三重県の尾鷲や志摩地方に集中し、港の船が打ち上げられ、漁村の生活は壊滅的な打撃を受けた。沿岸部では死者行方不明者を含め、合わせて1200人を超える命が失われたとされるが、戦時中の情報統制の影響もあり、正確な数字はいまだ不明な点も多い。

愛知県でも東部の知多半島、豊橋市、蒲郡市、そして岡崎市などで被害が報告された。しかし、それらの地域においては、比較的被害が軽微に見えたこともあり、翌日以降の新聞紙面では「国民は冷静沈着に行動すべし」「動揺して敵国の思う壺になるな」など、国民精神論を前面に押し出す記事が並んだ。地震そのものの分析や被害の実態に紙面が割かれることは少なかった。

この時期、日本国内は空襲の恐怖にさらされていた。東京や名古屋、大阪などの都市部は防空壕の整備や灯火管制が日常化し、住民たちは常に上空を警戒する生活を送っていた。そんな状況のなか、地震という“地からの脅威”は、空襲以上に予測不能な存在として、人々の心を不安に染めた。

それでも当時の国策は、被害を最小限に見せることに重点が置かれていた。震災の詳細が軍需生産や士気に影響することを恐れた軍部は、被災の実態を可能な限り伏せ、復旧の迅速さと国民の団結を強調する報道を指示した。たとえば、名古屋陸軍造兵廠の一部が損傷したとの情報はあったが、その影響はすぐに「完全復旧済」とされた。

このような背景の中、実は愛知県西部や三河地方では、「地面がいつもと違う揺れ方をした」「鶏が夜中に騒いでいた」など、地元住民による異変の証言が複数残されている。三河地域は東南海地震では震源からやや離れていたため、致命的な被害は免れたものの、どこか「不気味な沈黙」が続いていたという記録も見受けられる。

昭和東南海地震が一段落したかに見えたこの時、人々の頭には「また来るかもしれない」という不安が静かに根づいていた。だが、それが現実のものになるとは、誰も予想していなかった。

わずか1か月後、まさに“真冬の未明”に、それは起きた。次回、第2部では、1945年1月13日に発生した「三河地震」──報道されることなく、多くの命が奪われた“封印された直下型地震”の実態に迫る。

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